弔辞 - 自主平和統一平和連帯・常任代表 趙誠宇先生に捧げる弔辞
弔辞
在日韓国民主統一連合 議長 孫亨根
趙ソンウ先輩が私に注いでくれた深い愛情をふりかえるほど、私は必ず葬儀に参席しなければならない立場なのに、国家保安法による旅券はく奪によって参席できないことがほんとうに悔しい限りです。お許しください。
趙ソンウ氏の名を初めて聞いたのは1985年だった。当時、訪日していた黄ソギョン作家の発案で、運動圏の闘争方法の一つとして隆盛だったマダン劇を在日同胞と日本人に紹介するために、東京でマダン劇を公演することになった。黄氏の意向で当時早稲田大学留学中だった趙氏が東京のマダン劇で裏方の仕事をすることになった。彼の一つの仕事はマダン劇のキャンストを在日青年の中から探して決定することだったが、趙氏の判断は、日本でのマダン劇のキャストは、ある程度、在日韓国青年同盟(韓青)のメンバーに依頼するしかないということだった。しかし、知っての通り、当時は全斗煥時代であり、日本でも安企部の監視の目が光っていた。全斗煥政権は、韓民統の青年組織である韓青を最大の弾圧対象にしていたのだ。趙氏が韓青のメンバーと公開的に接触すれば、趙氏は帰国後、国家保安法による処罰を覚悟しなければならなかった。もちろん、趙氏もそのような状況をよく認識していた。にもかかわらず、趙氏は非常に積極的でおおらかな態度で韓青のメンバーと交流した。趙氏の表情からは態度からは警戒心とか緊張感は全く感じられなかった。非常に厳しい状況のもと、むしろ趙氏は積極的に公開的に韓民統と韓青の活動を高く評価し、そのことを韓国国内に正しく紹介してくれた。
1987年民主化から数年後、趙氏は私に、「日本滞在中に韓青のメンバーが一生懸命に韓国語をしゃべるのを見てほんとうに感動したんだよ」「私は韓青メンバーの姿から新たな民族のイメージを持つようになった」「世界各地で暮らす韓国人2世3世が民族的であろうとする努力のなかにこそ民族の原点があるのだと思った」「その時に『汎』という言葉が浮かんだ」「民族の心や定義は広いという意味だ」と力を込めて述べた。
2018年、私は中国で開催された6・15共同宣言実践民族共同委員会の南北海外3者会議で趙氏と会った。会議の合間に2人きりになった時に趙氏が私に「孫亨根、君は本当に立派だ。留学時代に韓青を知ったが、君のような韓青を卒業した在日2世が海外側委員長として統一運動の先頭に立っている姿を見て本当に嬉しく思う。君は私の誇りであり、民族の誇りだ」と言ってくれた。
その時、私は趙氏の民族に対する深い理解と広い愛を実感した。
また趙氏は「私の育った尚州は気候がよく、土地も肥えた地方で、おおらかで活発な人が多く育つんだよ」と述べた。
尚州出身の趙ソンウ先輩!
あなたこそ、尚州育ちにふさわしい、活発で、おおろかで、愛に満ちた、かけがいのない先輩でした。あなたは韓統連と韓青にとってかけがいのない恩人です。感謝の気持ちで一杯です。
やすらかにおやすみなさい。献杯
2025年1月21日
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